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大雨特別警報

今日は福井件医師協同組合主催のゴルフコンペが福井で開催される予定でした。ただ台風18号が近づいているので、天候が心配されていました。夜間 雨音と風の音が強かったなあ等と思いながら、5時半頃に起床しました。テレビをつけてみますと、とんでもありません 「経験したことが無いような数十年に一度の大雨で福井県などに大雨特別警報が出された」とテレビで言っております。何そんなにすごいのか、とりあえずは腹ごしらえをと考え朝食を取りました。これはゴルフどころじゃないなあと考えていますと、早速連絡が来まして「とてもゴルフができる状況ではない、敦賀から参加のためのバスはキャンセルした。それどころか笙の川がやばい状態だ、後決壊まで1mも無いようだ」 と言われました。我が家は水がつきやすいところとしては有名な所に建っています。家を建てた後となりの家が50cm以上土を盛った上に床をかなり上げて立っていることに気づき しまったと思ったのですがあとのまつりでした。そこで水に浸せば膨張して20Kgの土嚢になる簡易土嚢を購入して今回のような事態に備えていました。 敦賀市の防災ハザードマップによれば笙の川が決壊した場合わが家の辺りの水位は50cm~1mまでとのことであり、建設会社によればわが家は融雪装置のための勾配をつけたので道路よりも約50cm高くしてあるとのことである。そこで各出入り口を50cmくらいブロックするつもりで簡易土嚢を買いそろえました。 何しろこれまで経験の無い数十年に一度の記録的大雨と言うことですから、早速雨合羽を着て土嚢の用意をし始めました。でも土嚢を水につけるケースがありません。常々たらいを買おうと思っていたのですがつい忘れてしまっていました。簡易土嚢の説明書を読むとつけるもののして風呂の浴槽や衣装ケースでもと書いてあります。そうだ衣装ケースにしようと考え 家内に言いますとクローゼットの中に古着を入れていたケースをもってきてくれました。

ケース2個に水を張り土嚢を入れていきます、5分くらいで20Kgの土嚢ができあがります。まずは外来です、ここには電子カルテ用パソコンが床置きしてありますので水が入ったらイチコロに壊れます。そこで外来玄関自動ドアの隙間を防ぐように土嚢を3段くらい(60cm)積みました。その他自宅玄関や従業員の入り口、屋内駐車場への入り口に計25個の土嚢を積み上げました。作業を終えて一服するとのどが渇いたので缶ビール1本いただきテレビを見ていますと、隣町までの避難勧告が市街全域に広がりました。大丈夫か、でも雨脚は弱くなっていますしテレビで笙の川のライブ映像が出ていますが一時より水位が下がっていますので大丈夫だろうと考え、テレビの情報を注目しています。 それよりテレビの画像から京都 桂川たいへんですね、恐ろしい流れに見え、あふれているのがわかります。被害が最小であることを祈ります。

 敦賀市から防災警報が出ると私の携帯(i-phone)がピロロロロンといって 情報が入ってきます。メールアドレス等何も教えたはずがないのであるがどうして鳴るのだろう。私は医師会の災害救急医療委員会の委員長として市の防災担当者と会うことがあるのでその際聞いてみよう。そうこうするうちに避難勧告が解除になったという情報が携帯に入りましてまず一安心。それよりいただけないのは防災情報受信ラジオです、ザーザーと雑音ばかりでなにかしゃべっているのはわかるのですが、何を言っているのか非常に聞き取りにくい。家内によると普段は韓国の歌がいつも入りうるさくてしょうが無いので音量をOFFにしてあるらしい。敦賀市が無償で配ったものではあるが、あまり役立つとは思えない。これも防災担当者に言っておこう。

東京オリンピック招致おめでとうございます

 先の東京オリンピックは私が小学5年生の時に開催されたと記憶しています。そのときには聖火がいくつかの経路に分かれて日本中を回りました。敦賀にも来ると言うことで聖火の伴走ランナーの募集が有り、先生から出ないかと言われましたが私は長距離走が苦手でありましたので断った覚えが有ります。惜しいことをしました。授業中でも先生がみんなでオリンピックを見ましょうと言って、テレビを見ました。東洋の魔女の河西選手の活躍やマラソンで円谷選手が2位で国立競技場に戻ってきて、バックストレートでイギリスのヒートリー選手に抜かれてしまったことは今でも目に焼き付いています。 さあ今度は2020年です。東京オリンピック招致はアベノミクスの第4の矢とも言われておりますが、この矢がみごとに的中してほっとしております。もしこの矢が外れてしまいますと、第2 第3の矢の存在も怪しくなってくるのではないかと考えておりました。これで日本経済が盛り上がり、成長することを祈っております。このまま私の体が健康に保たれれば人生で2回東京オリンピックを見ることになり、幸せだと思っております。願わくば私が東京にいた35年間の間に東京にオリンピックが来てくれればさらに良かったと思いますが、致し方がありません。とにかく東京オリンピック招致バンザイ!

赤洲杯 ゴルフ大会

東京麻酔専門医会という会が東京に有ります。読んで字のごとく麻酔科の専門医の集まりです。この中では学術活動が中心ですが、楽しいこともしましょうとして行われている行事に各大学の対抗戦で野球大会とゴルフ大会が有ります。野球が最初に始まり、華岡青洲先生にちなんで「青洲杯」と言われております。その後ゴルフ大会が始まり野球の青に対抗して赤の字をつけ「赤洲杯」となりました。以前は赤にちなんで軽井沢72のレッドコースで開催されていましたが、レッドコースがなくなった後は北コースで開催されています。私もかなり以前から順天堂の選手として大会に出場しておりまして、敦賀に帰ってきて数年はでられませんでしたが、近年恩師の宮崎東洋先生が大会の会長になったことも有り最近の大会はまた出ております。 

 今年は9月1日に開催されました。順天堂は強豪チームの一つで過去に何度も優勝しております。団体戦もしくは個人戦で優勝するとカップのほかに「赤洲杯ゴルフチャンピオン」のエンブレムがもらえます。毎年これをブレザーにつけて参加している人を見るとうらやましい思いがしておりました。ちなみに順天堂の1軍代表はA チームとして出場致します。順天堂には80を切るような人やクラブチャンピオン戦に出るような人などがいて私などはA チームに入れてもらえず、結果エンブレムは持っていませんでした。惜しかったのは個人戦で準優勝したときが有ります(個人戦はシンペリア方式ですから、私にもチャンスが有ります)。このときの優勝者は先輩の先生で彼はシニアの年齢だったのですが、シニアでのエントリーを忘れてレギュラーの部での出場になっていました。どうしてシニアでエントリーしてくれなかったのと言って嘆きましたがしょうがありませんでした。

 そして今年は長谷にもエンブレムを持たせたいという宮崎先生の恩情で順天堂A チームで私が出場することになりました。団体戦は4人のグロススコアで争うので私一人がたくさんたたくわけにはいきませんので結構プレッシャーがありました。しかし今年は強豪の日大・東京医大が欠場でしたのでチャンスなのは間違いありませんでした。私は前半は最初のロングホールで第3打OBを打ってから調子を崩し50をたたいてしまいました。このため昼のビールは生中1杯で我慢しました。後半は4ホール終了までパープレーで回り、30台も夢ではないなんて言っていましたが、すぐに崩れて46におわりました。トータルスコア 96でした。しかし他のかたが一人は70台 もう一人は80台前半で回り、もう一人は私と同スコアと言うことで、第2位に約20打差をつけみごと団体優勝を勝ち取りました。チャンピオンエンブレムを頂くことができまして宮崎先生どうも有り難うございました。

世界選手権大会

現在水泳の世界選手権大会が開催されており、400m個人メドレーで瀬戸選手の金メダルや萩野選手の活躍、また美人の寺川選手の銅メダル獲得が伝えられています。8月10日からは陸上の世界選手権も始まります。このように陸上と水泳の世界大会が時を同じくして開催されますので、日々思っている私の思いを述べたいと思います。

 水泳ではメダルを取らないとニュースになりませんが、陸上では決勝に残るだけでファイナリストなどと言われもてはやされます。とくに短距離などでは準決勝に残っただけでもすごい報道ぶりです。この差は何なんでしょうか、たしかに日本人は外国人特に黒人とはいかんともしがたい体力差があり黒人の多い陸上短距離ではなかなか日本の選手が活躍しにくいためのことは理解できます。だから陸上短距離で予選通過するのが大変であることはわかりますので、準決勝に進んだ選手を褒め称えるのは当然と思っております。それでは水泳競技に目を向けてみましょう、世界選手権やオリンピックに出る選手は並外れた方です。その方が大変な努力をして出場しています。水泳であっても決勝、準決勝にに残れるだけでも大変なことだと思います。ですから水泳においても陸上競技と同じようにメダルを取った選手だけでなく準決勝や決勝に進出した選手を褒め称えてもよいのではないでしょうか。現在のような状態でありますと日本は水泳の代表選手に対して大変失礼なことをしていると常々感じているのですがいかがなものでしょうか。

甲子園の怪物

 松井秀喜さんがヤンキースの一員として引退セレモニーを受けていたニュースを見てよかったな幸せな方だななんて思いました。そういえば彼は甲子園では怪物といわれていたよなと思い今回は甲子園の怪物といわれていた方についてのコメントです。

 甲子園の怪物といえば数々いらっしゃると思いますが、私が知っている中で最も古いのが浪速商業の故 尾崎行雄さんです。怪童といわれ快投されたそうですが、私の小さい頃でテレビの画面ではあまり記憶がありません。その後の少年誌 「少年サンデー」や「少年」で記事で書かれていたので覚えています。東映フライヤーズに入り投手をされていたのは覚えています。その後私は医者になり東京浅草橋にある柳橋病院に時々麻酔をかけに行くようになって、近くで尾崎さんがレストランを経営されていると聞いて、ああ あの尾崎さんかと思っておりました。年若くお亡くなりになり非常に残念です。

 私が鮮明に覚えているのが江川卓さんと松井秀喜さんです。江川さんについては確か私の学生時代ですが、同級生の栃木出身のやつが作新学院にものすごいピッチャーがいるといっていましたが、どんなもんかいななんておもっていました。さて春の選抜甲子園大会が始まると栃木代表でその作新 江川が出てきました。同級生のいうことが真実でした、一回戦からものすごい快投を演じ、確か今治西戦です(間違っていたらごめんなさい)7回くらいまでランナーが出ませんでした。ものすごい投手という印象でした。現在のようにスピードガンがあれば150kmの球速は出ていたのではないでしょうか。優勝すると思ったのですが、その後確か試合巧者の広島商業の巧みな戦術であるバント作戦や 連続フォアボールの後のダブルスチールでエラーがらみで失点し負けたと記憶しております。

 かたや松井秀喜さんはバットに球が当たったと思ったら 球が外野の頭の上を抜けると感じるくらい打球の速さが頭に残っています。ただ松井さんの試合は私が医者になってからなので実際多くは見ていません。有名な尽誠学園戦の5打席連続敬遠で敗退し優勝には届いていません。このようにこの怪物二人はともに優勝していないことは興味深いことです。すなわち甲子園ではスーパースターが一人いてもチーム力が備わっていなければ勝てないと言うことでしょう。

 興味深いのはこの二人のその後ではないのでしょうか、江川さんは6大学野球をしたいと言って慶応受験しましたが合格できず、法政2部に入りました。大学でも非常に活躍され日米対抗ではほとんど一人で投げていたと記憶しています。プロへの登竜門であるドラフトですが、江川さんはクラウンライター(現在のソフトバンク)から指名されたものの、どうしてもジャイアンツに行きたいということで指名を拒否しました。そして疑惑の一日として有名ですが翌年 ドラフトの前日はフリーということで読売ジャイアンツ入団が発表されました。空白の一日事件ですね。セントラルリーグより即日この契約は無効となり、ジャイアンツはこの年のドラフト会議を拒否しました。江川さんはドラフトで複数指名され阪神か契約権をえて交渉に臨みました。この問題はこじれましたが翌年1月に阪神江川とジャイアンツ小林のトレードという形で決着がつきました。これは江川さんのどうしてもジャイアンツに入りたいという気持ちと、いい選手であれば金に糸目をつけず、なりふり構わずに獲得するというジャイアンツの姿勢が一致した結果といえるでしょう。後味のよいものではありませんでした。ジャイアンツに入った後はそれなりに活躍はされましたが、いぜんの怪物のようなすごみはなかったと記憶しております。聞いた話ですが彼は大学時代に肩を壊していてプロに入った後は全盛期のような投球はできなかったそうです。引退後はテレビの画面でご活躍されております。

 かたや松井さんです。彼は根っからの阪神フアンでしたが、ドラフトでジャイアンツが獲得権を得ました。松井さんは最初から阪神フアンであるがプロとして職業で野球をするのであるのあだからどの球団から指名されても行きますと公言していました。その結果ジャイアンツに入りましたが、ジャイアンツに入ってよかったなと思っています。彼の引退後の談話を聞いているとジャイアンツに入って長島さんとの出会いが彼の人生を決めたのではないでしょうか。長島さんから指導された切磋琢磨で すばらしい打者に成り(もちろん自力があったのは当然ですが)、大リーグに入っても大活躍されました。ヤンキースの一員としてワールドシリーズのMVP獲得 野球をするものにとってこれ以上のあこがれはないのではないかと思います。冒頭に戻りますがこのような人格と成績が兼ねそろった松井さんですからヤンキース退団後複数の球団に属して引退した彼をヤンキースガ一日マイナー契約して引退セレモニーを行ったのでしょう。アメリカは何事にもビジネスライクで行うものだと思っていましたが、ビジネスが関与しないところにはこのような心温かいことすることを見まして、やはり人間の社会というものはどこも変わりないなと感じたイベントでした。